2007年10月14日

教育制度と現状とのギャップ

今の学校教育に疑問を抱いている人は少なくないと思う。

なぜかというと、現代社会は何かと変化のスピードが速いのに対して、教育制度の基本的な部分が何十年、何百年間と変わっていないから、現状と合わなくなってきていることが、原因だと思う。

子供たちは何十年も前からこのギャップに気づいていたのに、大人たちは変えようとしない。


「こんな勉強して何になるんだ。日常生活ではほとんど役に立たないじゃないか。」


このセリフを何十回、何百回と聞いたことか。


今求められている学校教育制度を表した一例は、次のおとぎ話で良く表現されていると思う。



昔々、動物たちは、新しい世界の様々な社会問題を解決するために、何かしなければならないと考えて、学校を設立することにした。科目は、かけっこ、木登り、水泳、飛行であった。学校を円滑に運営するために、すべての動物にこれら四科目の履修が義務づけられた。
アヒルは、水泳の成績は優秀だった。先生よりもうまかった。飛行もいい成績だったが、かけっこは苦手だった。それを補うために、放課後居残りをさせられ、そのうえ水泳の授業時間まで削って、かけっこの練習をさせられた。やがて、足の水かきが擦り減り、水泳も平凡な成績に落ちた。しかし、学校は平均的な成績でいいとされていたので、アヒル本人以外は、誰もこのことを気にかけなかった。
ウサギは、かけっこにかけては最初から優等生だったが、水泳が苦手で居残り授業ばかりさせられているうちに、神経衰弱を起こしてしまった。
リスは木登り上手だったが、飛行の授業では、木の上からではなく、どうしても地上から飛べと先生に強制され、ストレスがたまる一方だった。疲労困憊の末、肉離れを起こし、やがて木登りもC、かけっこもDにまで落ちた。
ワシは問題児で、厳しく構成する必要があった。木登りの授業では、いつも一番早く木の上に到着したが、先生の指示する方法にどうしても従おうとしなかった。
結局、学年末には、泳ぎが得意でかけっこもまあまあ、木登りも飛行もそこそこという少々風変わりなウナギが、一番高い平均点を獲得して卒業生総代に選ばれた。
学校側が穴掘りを授業に取り入れてくれなかったことを理由に、モグラたちは登校を拒否し、その親達は税金を納めることに反対した。そして子供をアナグマのところに修業に出すと、後はタヌキたちと一緒に私立学校を設立し成功を収めた。
(『動物学校』R・H・リブス)





教育制度への疑問は何も、自分が学校に馴染めなかったからとか、いい成績がとれなかったからではありません。

いい成績をとって、いい大学に入って、いい会社に入っても、幸せが得られなかった。


そんな経験があるから、余計に教育制度に疑問を持つようになったのです。
タグ:学校 教育
posted by Holy at 02:08| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おひさしぶりです^^
Anthonyのセミナースタッフをしていたまるがり〜たです☆

解りやすい例ですね.
大変読みやすかったです.
システム上どうしても画一化っていうのが行われてしまうんでしょうかね、、
私も不登校していた時期があるので,特にモグラくんの例に共感しました.
Posted by むっく@まるがり〜た☆ at 2007年10月14日 17:48
今年の1月まで教育に携わっていましたが、
辞めて名古屋に帰ってきました。
辞めたのは適応できなかった自分のせいなので
仕方がありません。

生徒にもいましたよ。
「勉強しても意味がない」といって遊び呆けている子が。
でも、勉強しないために進路がどんどん狭まって、
「行っても意味がないかも」と思ってしまうような学校の推薦しかないという現実が待っています。

全国学力テストで「考える力」を問う問題の正答率が低かったというニュースがありましたが、
ある程度の知識がないと考えられないですよね。
英語も最低限の単語を覚えないと喋られないのと同じです。
「考える力」は、自分が得た知識や技術を使い、
考える経験を積み重ねることによって身につけるものだと私は思います。

学校でやることに無駄なことはないはずです。
(私は地歴科教員として「受験に関係ない」という声を浴びました。)
苦手でも何とかやったという自信が社会で役にたつはずです。
私も、司書の資格を取るために通信教育を受けていますが、
大学院までダメなりに勉強してきたことは、
私の自信になっています。

長文失礼しました。
Posted by huihui at 2007年10月15日 01:11
>まるがり〜たさん

ご無沙汰ですね。
モグラさんだったんですか。
モグラさんみたいな人が異端児扱いされて、つらい思いをしているんでしょうね。

人の価値観がこれだけ多様化してきているのに、なぜ自分と違う価値観に敬意を示すことができないんでしょうかね。


同じ価値観の人ばかりでは、進歩はありません。
異なる価値観の人がいるから、新しい価値が生み出されるのです。
Posted by かずえ at 2007年10月15日 23:22
>huihuiさん

学校教育全てを否定するつもりはありません。
知識が必要であることは、たしかにそうでしょう。


それでは、英語が話せるようになるべきだと決めるのは誰ですか?


国?学校?親?
どれもちがいます。
本人が決めることです。

国や学校や親ができることは、子供に選択肢を用意してあげることです。
何を選ぶのか決めるのは、本人です。

「考える力」の低下の原因は、勉強も何も自分で考えて選んでいないからだと思っています。

「親が勉強しろと言うから、勉強する。」
「先生がここを憶えろというから、憶える。」
「みんなが受験するから、自分も受験する。」

本人が考える機会を奪っています。



そして多くの学校では、生きるための知識は教えていませんよね。
サラリーマン以外になる方法を教えられる先生がどれぐらいいらっしゃるでしょうか。
サラリーマン以外になることを心から応援してくれる先生はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。


私の望みは、個性を認め、その子供の可能性を信じ、その子供が望む方向へ進むために、勇気を持って背中を押してあげられる先生や学校環境(教育制度)です。

そして、学校に行く以外の選択肢を選べるようにしたい。
Posted by かずえ at 2007年10月15日 23:49
>かずえさん
>私の望みは、個性を認め、その子供の可能性を信じ、その子供が望む方向へ進むために、勇気を持って背中を押してあげられる先生や学校環境(教育制度)です。

私も就職するまではそう思っていました。
中学・高校時代の先生方は、最低限のことを教えてくれて、
その先の進路は私たちに考えさせてくれました。
というよりも「自分で考えなさい」と無言で背中を押していたのかもしれません。
勉強以外でも、私たちに南方での戦争体験を語ってくれた理科の先生や、
世界史の授業で一緒にベトナム料理を作った先生など、
人生が豊かになることを教えてくれました。
27歳の現在、会社員や主婦、アルバイト(私)やミュージシャンなど、進路はさまざまですが、
心の豊かさ(カトリック校なので)はそれぞれの胸の中にあります。

しかし、就職先の学校は「面倒見の良さ」を売りにしているところでした。
親もそれを求めていました。
進路指導がしやすいように教員が選択教科を決めていくというやり方でした。
高校1年生の生徒たちは自分で考えたことがないので、
彼らに任せたら大変なことになるという論理だったのでしょう。
就職先の校長に言わせれば、私の母校のやり方は「教育ではない」そうです。
私の「教員」観も真っ向から否定されました。
そのことは非常に辛かったです。

私の指導教員も、この頃は大学でも「面倒見の良さ」が求められている、と嘆いていました。
社会全体が「面倒見の良さ」を求めているように思えます。

英語を覚えるようにと決めたのはアメリカだと思っています。
私は医学部図書館でアルバイトをしていますが、
現在の医学雑誌で使われる外国語は、ほぼ英語です。
古い雑誌にはドイツ語のものも多いですが、
時代が進むにつれて減っているのがわかります。
これも「グローバルスタンダード」なのでしょうか。

>そして、学校に行く以外の選択肢を選べるようにしたい。

そのような選択肢を進む子になるには、
しっかりとした家庭教育と地域の協力が必要だと思います。
自立していない親が多く、社会全体が学校に過大な期待を抱く現況では、
教育制度に頼らない自立した人間になるのは、相当難しいでしょう。

Posted by huihui at 2007年10月16日 22:30
>huihuiさん

面倒を見ることが必要な場合もあるでしょう。

面倒を見ることが過剰になれば、面倒を見てもらった方はそれに依存します。
依存することに慣れた学生が多くなっているから、大学でも生徒の面倒を見ることが必要だと言われるようになったんだと思います。

実際、18〜20歳ぐらいの学生さんと話をしていると、
「大学が研究機関であって欲しくない。高校と違いすぎる。小・中・高・大・会社とエスカレーターのようになっていて欲しい」
と思っている友人が多いということを聞きました。

このような話を聞くと、今の学生は深刻な依存状態にあると感じずにはいられません。
そして、その親たちも学校などの教育制度に依存していると感じています。


人の心の成長は

「依存」→「自立」→「相互依存」

であると考えています。
生まれたばかりの赤ん坊は、当然「依存」しなければ生きられませんよね。誰かが面倒を見ないといけないわけです。

つまり、過剰に面倒を見ることは依存状態を作り出すと、考えています。



確かに、今の日本は依存状態の人間が多いです。
しかし、社会が(会社も)求めているのは、「自立」している人間です。


自ら考え、行動できる人間が必要であり、指示されないと何もしない、指示されたこと以外はやらない人間は求められていません。


学校教育が人を育てる場だとするならば、知識を教えるだけでなく、「自立」した人間となるように心の教育をする必要があるでしょうね。


そして、面倒をみることと、責任を負うことのバランスが崩れているかもしれませんね。

面倒を見ると言うことは、その人に対して責任を負うということだと思っています。
最期まで面倒見切れないなら、責任がとれないなら、最初から面倒を見ることはしない方がいいです。

その人の人生の責任を背負い込むことができますか?

その人の人生の責任は、その人だけが負うことができます。


だからこそ教育者は、責任の重さを感じながら、面倒を見ることとのバランスを見極める必要があると感じています。(親もね)
Posted by かずえ at 2007年10月17日 00:46
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